秀さんの独り言 at his penthouse


 Davidehide のひとりごと

 

       ≪余計な雑学≫  No.1  辻 秀幸 

 

コロナ禍で巨人軍が絶好調ですっ!! 

今日9月5日の試合後の時点で2位阪神に2.5ゲーム差、今月半ば過ぎにもマジック点灯の可能性があるようです。MPCの皆さんも巨人ファンが多いといいなぁ? 因みに荒谷先生はどうだったんでしょうか? 聞くの忘れてましたが、九州だからSBか西鉄ライオンズってとこかなぁ? 

 私は子供の頃から典型的な巨人・大鵬・卵焼き好きの素直で利発な可愛い長男として育ちました。3歳から玉川学園の近所のヴァイオリン教室に通わさせられ、町田市立ふたば幼稚園時代には「開闢以来の天才児」と謳われたものです。そして町田第五小学校3年時には虫垂炎手術なども経験し、なんと身長136㎝ 体重60㎏と言う超肥満児指定を受けました。音楽以外の成績は芳しくなく、両親もその道しかなさそうだと思ったのか、金も無かったくせに私を中学・高校時代にはピアノ・ヴァイオリン・作曲・管楽器・ソルフェージュ・最後には声楽のレッスンまで受けさせてくれました。

 

しかし週13か所へのレッスンに通い、土曜日の夜にはアマチュアオーケストラに入団して上野まで通っていたのに(指揮は濱田徳昭先生でした)、結局どれもモノに成らず、唯一の望みを託していた作曲のレッスンの師匠、髙田三郎先生から「才能無いからやめなさい」と最後通告を受けたのは高校2年の12月の事でした。

 

そんな打ちひしがれていた私を救ってくださったのは当時東京藝術大学声楽科4年に在籍されておられた超美人ソプラノの水谷(旧姓 古河)ひさ子先生でした。「だから私は最初から声楽が良いって言ったでしょっ!」と私をビシバシと鍛えて下さいました。そして当時としては信じられないような関種子先生・下野昇先生・渡辺高之助先生・伊藤武雄先生の素晴らしい先生方からご指導を仰ぎ、現役で東京藝術大学声楽科・桐朋音楽大学声楽科に目出度く合格しました。伊藤先生には大いに未練を感じましたが、兄弟は3人でしたし、まだまだ学費がめちゃくちゃ安かった東京藝術大学に進学することとなりましたが・・・母は、「あそこからあなたは真の馬鹿になって行った」と言うのですが・・・それはまた次号に!  

 

練習ではシゴクカラネ!!


  Davidehide のひとりごと

 

        ≪余計な雑学≫  No.2  辻 秀幸

  

 藝大での生活は本当に楽しかった! 

4月から私は故・渡辺高之助教授の門下生として大学生活をスタートさせました。「自分が藝大なんかに入れる筈が無い」と幼少時代から思っていた憧れの大学は、入ってみたら案外居心地が良くて、一般学科はあるものの(笑)ほぼ毎日私を音楽漬けにしてくれて、綺麗な女性は同級生にも先輩方にも先生方にも沢山おられて、本当に目の保養には事欠きませんでした。

 

入学時にはソルフェージュの選抜試験があり、声楽科学生としては結構良い成績のクラスに振り分けられ、そこでオルガン科の同級生-今や世界を股にかけて大活躍の井上恵子ちゃん(我が学年ではマドンナ的存在の一人で“藝大の百恵ちゃん”と呼ばれていました)-とも同じクラスで、仲良くして頂きました。

 

実はこのソルフェージュのクラスで遠藤雅夫先生と言う作曲家の先生に出会ったことで得た「リズム把握のテクニック」が今の私の指揮活動を支えていると言っても過言ではありません。

学年が進み小泉文夫先生の民族音楽の講義や大宮真琴先生のオーケストラ概論、桜林仁先生の音楽療法、町田で中心になってメサイア演奏会を牽引されておられた中村俊一先生の音響生理学等々、本当に興味深い講義ばかりでウキウキと大学に通っておりました。

本業の声楽専科の個人レッスンは私の前が今も二期会の重鎮として活躍されるテノールの大野徹也氏、私の後のレッスンは世界を唸らせたあの市原多郎(当時は太郎)氏だったので、自分のレッスン以上に前後のレッスンの聴講を夢中になってさせて頂きました。

 

こっちだけが付き合ってると勘違いさせられた恋愛も幾度か経験させて頂き(笑)、楽しい日々を過ごしておりました。

副科ではピアノを田辺みどり先生の下履修し、一年生前期試験でなんと“秀”を頂いて気を良くし、これは4年間履修しました。二年時からは幼少から続けていたヴァイオリンも藝大で履修しました。そんな折、藝大では神田カンパニー・ガダニーニ事件なんてのがあってヴァイオリンを持って歩いているだけで記者たちに追い掛けられて楽しんだりしてました。


 Davidehideの ひとりごと

 

    ≪余計な雑学≫  No.3   辻 秀幸  

 

東京藝術大学の旧奏楽堂は、私の在学中は、現在構内奥に聳え立ちます新奏楽堂の場所に建っておりました。その頃から既に老朽化が進み、当時から比較的体重の重かった私が階段を上り下りすると奇妙な異音を響かせておりました。その奏楽堂に学部一年の夏休み前の金曜日に足を踏み入れたことが、今の私の宗教曲指導を中心とした合唱指揮者生活を造り上げてくれた・・・と言うより、まさにこの日が人生最大のターニングポイントだったのです。

 

その旧奏楽堂こそは「東京藝術大学バッハカンタータクラブ」の練習会場だったのです。

初めてその練習会場に足を踏み入れた時、現北海道合唱連盟副理事長の、当時はバリトンだった大嶋恵人先輩と、スイスの劇場付き合唱団で長く活動されて後に徳島大学特設音楽科教授を務められたテノールの頃安利秀先輩が、練習開始前の椅子並べなどをされておりまして、その場で私は非常に気楽に「入れて貰いたいんですがぁ~」と告げたのでした。お二人の異様なまでの喜び様にも気を良くした私は早速入部手続きをしました。

やがて既に入部していた同級生のソプラノ 徳永房子、現神奈川大学教授でバリトンの今村(現 小川)昌文、不慮の事故で若くして故人と成った優秀なテナーの塚田道彦らが練習にやって来ました。その後私は金曜日の大学の講義終業後には急いで、今年の3月でその長い歴史を閉じた美術学部構内の学食 大浦食堂で“バタ丼”か、今年の7月でこれまたその長い歴史を閉じる音楽学部構内の学食 キャッスルで“そば”か“ラーメン”を掻っ込んで、いそいそと会場に足を運んだものでした。前号でも申し上げておりました様にすっかり天狗になりかかっていた私でしたが、しかし練習が始まり指揮台に立った先輩の第一声でまず私は度肝を抜かれることに成ります。

 

元岩手大学教授で毎年ライプツィヒ(当時まだ東独)で行われていた“バッハコンクール”で「若き日のペーター・シュライヤー」と絶賛された佐々木正利氏(当時藝大大学院後期博士課程一年生)のどこまでも伸びやかに、光り輝きながら響き渡る夢の様な大音量の美声に圧倒されました。

そして隣ではその後前述のバッハコンクールで第1位を受賞され、その賞金でピアノを購入され、後に藤原歌劇団・劇団四季でも大活躍されたという変わり種のテナー石井健三氏(昨年一月にご逝去)のビロードの様な美しい歌唱に心臓がバクバクし、ブレスコントロールの名手で高音ならどこまででも出てしまう前出のテナー頃安氏に挟まれて、私は無茶苦茶なドイツ語で失笑を買いながらも付いて行くのがやっとと言う練習を終えました。とにかくこの二時間で、私は藝大に入って漸く自分の中で芽生え始めた「自信」と言う名の幻想を完膚なきまでに打ち砕かれたのでした。

 

他声部にも翌年の毎日音楽コンクールで一位を受賞された遠藤優子女史はじめ、今や日本中の音大や音楽科で教授・助教授の要職に就かれる先輩方ばっかりだし、ヴァイオリンには今尚ドイツで活躍中の実力も美しさも群を抜いておられた奥うらら女史、ベルリンフィルでも演奏されたオーボエの小畑義昭氏、そして通奏低音にはあのバッハ・コレギウム・ジャパンの創始者 鈴木雅明氏、同級生で盲目のチェンバリストの武久源三までが一堂に会していたんです。

そして何より数週間に一度は必ずご指導下さった、今の私よりずっと年下の小林道夫先生が本番の指揮をして下さったのです。

 

もう本当に私はこの先自分が果たして音楽をやっていて良いんだろうかと、この後数年思い悩むことになるのでした。

 

それはまた次号で!!




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M P C

町田フィルハーモニー合唱団

Machida Philharmonic Chorus

E-mail: mpc@1995mpc.com