秀さんの独り言              辻秀幸 at his penthouse



Davidehideのひとりごと           余計な雑学集


No.1  

 

コロナ禍で巨人軍が絶好調ですっ!! 

今日9月5日の試合後の時点で2位阪神に2.5ゲーム差、今月半ば過ぎにもマジック点灯の可能性があるようです。MPCの皆さんも巨人ファンが多いといいなぁ? 因みに荒谷先生はどうだったんでしょうか? 聞くの忘れてましたが、九州だからSBか西鉄ライオンズってとこかなぁ? 

 私は子供の頃から典型的な巨人・大鵬・卵焼き好きの素直で利発な可愛い長男として育ちました。3歳から玉川学園の近所のヴァイオリン教室に通わさせられ、町田市立ふたば幼稚園時代には「開闢以来の天才児」と謳われたものです。そして町田第五小学校3年時には虫垂炎手術なども経験し、なんと身長136㎝ 体重60㎏と言う超肥満児指定を受けました。音楽以外の成績は芳しくなく、両親もその道しかなさそうだと思ったのか、金も無かったくせに私を中学・高校時代にはピアノ・ヴァイオリン・作曲・管楽器・ソルフェージュ・最後には声楽のレッスンまで受けさせてくれました。

 

しかし週13か所へのレッスンに通い、土曜日の夜にはアマチュアオーケストラに入団して上野まで通っていたのに(指揮は濱田徳昭先生でした)、結局どれもモノに成らず、唯一の望みを託していた作曲のレッスンの師匠、髙田三郎先生から「才能無いからやめなさい」と最後通告を受けたのは高校2年の12月の事でした。

 

そんな打ちひしがれていた私を救ってくださったのは当時東京藝術大学声楽科4年に在籍されておられた超美人ソプラノの水谷(旧姓 古河)ひさ子先生でした。「だから私は最初から声楽が良いって言ったでしょっ!」と私をビシバシと鍛えて下さいました。そして当時としては信じられないような関種子先生・下野昇先生・渡辺高之助先生・伊藤武雄先生の素晴らしい先生方からご指導を仰ぎ、現役で東京藝術大学声楽科・桐朋音楽大学声楽科に目出度く合格しました。伊藤先生には大いに未練を感じましたが、兄弟は3人でしたし、まだまだ学費がめちゃくちゃ安かった東京藝術大学に進学することとなりましたが・・・母は、「あそこからあなたは真の馬鹿になって行った」と言うのですが・・・それはまた次号に!  

 

練習ではシゴクカラネ!!


No.2  

  

 藝大での生活は本当に楽しかった! 

4月から私は故・渡辺高之助教授の門下生として大学生活をスタートさせました。「自分が藝大なんかに入れる筈が無い」と幼少時代から思っていた憧れの大学は、入ってみたら案外居心地が良くて、一般学科はあるものの(笑)ほぼ毎日私を音楽漬けにしてくれて、綺麗な女性は同級生にも先輩方にも先生方にも沢山おられて、本当に目の保養には事欠きませんでした。

 

入学時にはソルフェージュの選抜試験があり、声楽科学生としては結構良い成績のクラスに振り分けられ、そこでオルガン科の同級生-今や世界を股にかけて大活躍の井上恵子ちゃん(我が学年ではマドンナ的存在の一人で“藝大の百恵ちゃん”と呼ばれていました)-とも同じクラスで、仲良くして頂きました。

 

実はこのソルフェージュのクラスで遠藤雅夫先生と言う作曲家の先生に出会ったことで得た「リズム把握のテクニック」が今の私の指揮活動を支えていると言っても過言ではありません。

学年が進み小泉文夫先生の民族音楽の講義や大宮真琴先生のオーケストラ概論、桜林仁先生の音楽療法、町田で中心になってメサイア演奏会を牽引されておられた中村俊一先生の音響生理学等々、本当に興味深い講義ばかりでウキウキと大学に通っておりました。

本業の声楽専科の個人レッスンは私の前が今も二期会の重鎮として活躍されるテノールの大野徹也氏、私の後のレッスンは世界を唸らせたあの市原多郎(当時は太郎)氏だったので、自分のレッスン以上に前後のレッスンの聴講を夢中になってさせて頂きました。

 

こっちだけが付き合ってると勘違いさせられた恋愛も幾度か経験させて頂き(笑)、楽しい日々を過ごしておりました。

副科ではピアノを田辺みどり先生の下履修し、一年生前期試験でなんと“秀”を頂いて気を良くし、これは4年間履修しました。二年時からは幼少から続けていたヴァイオリンも藝大で履修しました。そんな折、藝大では神田カンパニー・ガダニーニ事件なんてのがあってヴァイオリンを持って歩いているだけで記者たちに追い掛けられて楽しんだりしてました。


No.3   

 

東京藝術大学の旧奏楽堂は、私の在学中は、現在構内奥に聳え立ちます新奏楽堂の場所に建っておりました。その頃から既に老朽化が進み、当時から比較的体重の重かった私が階段を上り下りすると奇妙な異音を響かせておりました。その奏楽堂に学部一年の夏休み前の金曜日に足を踏み入れたことが、今の私の宗教曲指導を中心とした合唱指揮者生活を造り上げてくれた・・・と言うより、まさにこの日が人生最大のターニングポイントだったのです。

 

その旧奏楽堂こそは「東京藝術大学バッハカンタータクラブ」の練習会場だったのです。

初めてその練習会場に足を踏み入れた時、現北海道合唱連盟副理事長の、当時はバリトンだった大嶋恵人先輩と、スイスの劇場付き合唱団で長く活動されて後に徳島大学特設音楽科教授を務められたテノールの頃安利秀先輩が、練習開始前の椅子並べなどをされておりまして、その場で私は非常に気楽に「入れて貰いたいんですがぁ~」と告げたのでした。お二人の異様なまでの喜び様にも気を良くした私は早速入部手続きをしました。

やがて既に入部していた同級生のソプラノ 徳永房子、現神奈川大学教授でバリトンの今村(現 小川)昌文、不慮の事故で若くして故人と成った優秀なテナーの塚田道彦らが練習にやって来ました。その後私は金曜日の大学の講義終業後には急いで、今年の3月でその長い歴史を閉じた美術学部構内の学食 大浦食堂で“バタ丼”か、今年の7月でこれまたその長い歴史を閉じる音楽学部構内の学食 キャッスルで“そば”か“ラーメン”を掻っ込んで、いそいそと会場に足を運んだものでした。前号でも申し上げておりました様にすっかり天狗になりかかっていた私でしたが、しかし練習が始まり指揮台に立った先輩の第一声でまず私は度肝を抜かれることに成ります。

 

元岩手大学教授で毎年ライプツィヒ(当時まだ東独)で行われていた“バッハコンクール”で「若き日のペーター・シュライヤー」と絶賛された佐々木正利氏(当時藝大大学院後期博士課程一年生)のどこまでも伸びやかに、光り輝きながら響き渡る夢の様な大音量の美声に圧倒されました。

そして隣ではその後前述のバッハコンクールで第1位を受賞され、その賞金でピアノを購入され、後に藤原歌劇団・劇団四季でも大活躍されたという変わり種のテナー石井健三氏(昨年一月にご逝去)のビロードの様な美しい歌唱に心臓がバクバクし、ブレスコントロールの名手で高音ならどこまででも出てしまう前出のテナー頃安氏に挟まれて、私は無茶苦茶なドイツ語で失笑を買いながらも付いて行くのがやっとと言う練習を終えました。とにかくこの二時間で、私は藝大に入って漸く自分の中で芽生え始めた「自信」と言う名の幻想を完膚なきまでに打ち砕かれたのでした。

 

他声部にも翌年の毎日音楽コンクールで一位を受賞された遠藤優子女史はじめ、今や日本中の音大や音楽科で教授・助教授の要職に就かれる先輩方ばっかりだし、ヴァイオリンには今尚ドイツで活躍中の実力も美しさも群を抜いておられた奥うらら女史、ベルリンフィルでも演奏されたオーボエの小畑義昭氏、そして通奏低音にはあのバッハ・コレギウム・ジャパンの創始者 鈴木雅明氏、同級生で盲目のチェンバリストの武久源三までが一堂に会していたんです。

そして何より数週間に一度は必ずご指導下さった、今の私よりずっと年下の小林道夫先生が本番の指揮をして下さったのです。

 

もう本当に私はこの先自分が果たして音楽をやっていて良いんだろうかと、この後数年思い悩むことになるのでした。

 

それはまた次号で!!

 


No.4    

 

 藝大バッハカンタータクラブ入部後すっかり自信を失いかけていた頃、私は父が合唱指揮者だったこともあり、そんな父の仕事の手伝いや運転手を務める事が少しずつではありますが増えて来ました。

 

父は我が家の隣にあった音大生・音楽家専用マンションの一階に在った「井上ホール」という少し広めの、ピアノの発表会くらいは十分に出来そうな大きさのホールで、おかあさんコーラスの午前中の練習をすることが有りました。その頃父はまだ40代後半で、前夜に入浴していても練習前に朝シャワーをほぼ欠かしませんでした。そして練習時間に間に合いそうになくなると「おーい!秀幸!〇〇合唱団の発声練習してくれぇ~!」と声を掛けてくるのです。私を鍛えようとしてくれたのか、はたまた自分がシャワーを浴びる時間を捻出したかっただけなのか、今と成っては知る由も無いのですが、父と同年代の妙齢なご婦人たち、即ち両親世代の方々に発声練習をするというのは、なかなかドキドキするものでした。それでもお姉さま方は「藝大声楽科新入生のお手並み拝見」とばかりに温かく迎え入れて下さり、それなりに効果を得たような錯覚を覚えました。そんなことが今の仕事のきっかけに成ったのかも知れません。

 

次第に私は父の都合の悪い日を埋める第2の指導者として、大学の講義の無い時間には父に帯同することが増えて行きました。そしてその秋にはついに花小金井で活動するおかあさんコーラス“滝山女声コーラス”を自身最初の正指揮者として任される様になりました。続いて最高裁判所書記官研修所コーラス部、山崎製パン本社合唱団、と今にして思えばかなりいい加減な準備と態度で指導をさせて頂く様になりました。無論金曜日の夜はカンタータクラブの練習に「ほぼ」毎回熱心に通いつつ、その時に得たネタを活用させて頂きながらアマチュア合唱団の指導、父の仕事のサポーターとして、またまた少し偉そうに出来る別の場所を得ていったのでした。

 

同時に昔から器楽演奏をし続けていた自分は副科ピアノに“田邊緑先生”と言うビッグネームに師事する事が出来、なんと4年間この先生に、いい加減な練習しかしないくせに熱心に通わせて頂きました。本当に熱心にご指導頂きました。お陰様で一年生最初のピアノの試験では、な・な・なんと「秀」の成績を頂いたのでした。

 

しかしこの後・・・私は酒と女と・・・ばかりでは無いんですが(笑)、オフザケが過ぎまして、幾度となく音声障害を起こすようになってしまいました。歌っている時間より馬鹿で強靭な喉を持ち合せる友人達と面白可笑しく過ごす時間が圧倒的に長くなるに連れて自分の「何か」が壊れて行くことに自覚が無かったのです。

 

途端に私は声楽科の劣等生に成り下がって行くのですが、その「悪い仲間たち」のお話はまた次号で…。

 

            ********

 *追記:前号No.3文中の小川昌文氏は神奈川大学教授となっておりましたが、これは誤りでした。

上越教育大学を経て、現在は横浜国立大学教授に成っておられます。お詫びして訂正申し上げます。


No.5    

 

皆様明けましておめでとうございます! 昨年は素晴らしいコンサートの指揮をさせて頂き、心から光栄に思います。今後とも幼少期から育った「町田」の地で音楽家として生きて行けることを嬉しく思います。今年もよろしくお願い申し上げます。

 

さて藝大声楽科3年時在籍中辺りから私の生活は多忙を極める様になりました。大好きな恋人との時間(秘)、厳格な指導教官のレッスン、バッハカンタータクラブでの道を外れぬ為の最後の砦の様な時間、父の指揮するクロスロード・シンガーズのトップテナーとしての年間数百本のステージ、それ以外にもコンサートやスタジオ、テレビ、ラジオ、CM収録等々、声楽家の卵として様々なアルバイトをさせて頂く様に成り、ドリフの聖歌隊や山田邦子のひょうきん絵描き歌、ザ・ベストテン、レコード大賞のバックコーラス、アマチュア合唱団の指導などなど、悪くない収入も手伝って結構いい気になって燥いで暮らしていました。

 

そんな中で“ガラスの仮面”ならぬ“ガラスの声帯”しか持ち合わせがなかった私は不調を来す事が多くなり、仕事にちょくちょく穴をあける様になって行きました。しかしそんな挫折の中でもお調子者の私は“寡黙な生活”は出来ず、結果治癒にも時間を要しましたが、学内演奏会、夏・冬の試験にはそこそこ間に合わせて4年時には卒業の目途が立って参りました。そこで何となく目指すことに成ってしまったのが大学院の入試でした。60人居る声楽科からせいぜい数人しか合格出来ない難関に挑戦すること自体、調子の波の激しい劣等生の自分には考えられないものでしたが、そこは尻叩かれ人生の自分の事、先輩・他科の同級生・クラブの後輩達から様々な刺激を頂きながら珍しく学科も勉強を進め、入試に臨むテーマも、方向性も定まり、今思えばシューベルト・シューマン・ヴォルフを中心に本当に美しい選曲を提出する事が出来ました。歌も学科も幸運にも山が図星で当たり、晴れてストレートで大学院生と成りました。同学年から大学院独唱科に進んだ男声はほぼ居なかったので、重唱の時間などではほぼ虐めに近いやり方でインスペークターに任ぜられ、これまた忙しい学生生活と成りました(だってみんなとっても我儘なんだもん!!)。

 

大学院に進んでから最大の自分の転機を迎えるのは間も無くの事でした。担当教官の渡邊高之助先生の個人レッスンを始め、中山悌一先生のドイツリート、畑中良助先生の舞台語発音法、瀬山詠子先生の日本歌曲等々、本当に恵まれた指導陣に依る日々「目から鱗」の講義の中で、日本人として初めてドイツでの教会音楽家(カントル)の資格を得られた岳藤豪希先生の「宗教音楽」の講義での一件は私を根底から変えて下さいました。この先生の講座で私は得意になってバッハカンタータクラブで習得した(と勘違いしていた)曲を歌っていたのですが、「君は良い声とディクションで歌っているけれど、要は聖書の理解が伴っていないんだ!」の一言にまたまた潰されます(実は目覚めさせられます)! 自棄を起こした私はカンタータクラブの練習の休憩時間に「誰か俺を教会に連れてってくれないかなぁ!」と叫んだところ、オルガン科の可愛い後輩が「先輩うちの教会に入らっしゃいますかぁ?」と声を掛けてくれました。ここが本当の意味での教会音楽中心の今の生活への分岐点だったのですが・・・続きはまた次回!


No.6 

             

 過日は多くの皆様に家内の前夜式・葬儀にご会葬、ご供花・お花料・様をお寄せ頂きまして誠に有難うございました。今後は気高く逝った家内を失望させることのない余生を送りたいと願っております。今後とも何卒宜しくお付き合いの程お願い申し上げます。

 

さて、前回の続きです! 私が可愛い後輩に誘って貰って通い始めた教会は、私の住む神奈川県川崎市多摩区登戸からは、電車でも車でも1時間ほどかかる都心の一等地にその威容を構える日本基督教団霊南坂教会でした。この教会があの大バッハと同じくプロテスタントの教会であったことも私にとって非常に大きな意味を持つことに成りました。

 

当時は今のサントリーホールの在る辺りに教会は有りました。歴史ある建物で関口 宏さん・山口 百恵さんも当時の会堂で結婚式を挙げられました。

そして私が初めて教会の礼拝に招かれた日に、私の前に座って居られたご婦人から、「あなた良い声してるわねぇ! 聖歌隊にお入りなさいな!」と声を掛けて下さいました。「いや、私は今日初めて礼拝に来たばかりでクリスチャンでも何でもないんです!」と申し上げると「そんな最初からクリスチャンなんて方はいませんよ! 聖歌隊は教会に来る方ならどなたでも大歓迎して下さるわよ」と仰って、礼拝後私はその聖歌隊に連れて行かれたのでした。

 

こうして私の聖歌隊通いと言うか、教会の日曜日の礼拝と聖歌隊の練習が私の習慣になって行きました。正直聖書なんてどうしたって馴染めませんでした。創世記なんて全く何が言いたいか解らないし、キリストの死に方のグロテスクさには嫌気がさしたのですが、当時の名物牧師飯清先生の説教は私の心を捉えて行きました。副牧師であられた原誠牧師の正反対のお話もまた非常に興味深かった。また牧師ってどうしてみんな姓も名前も一文字なんだろう?なんて下らないことから、そういや自分も姓は一文字だから秀だけの名前も幸だけの名前も良いなぁなんて思いましたが、前者は寿司屋みたいだし後者はフェミニンな香りがするのでやめときました。

 

この毎週の説教の起承転結の組み立てや流れを毎週聞く内に、私は人に通ずる話し方とそうでない話し方、滑るジョークと滑らないジョーク、説明しなければならないダジャレの惨めさ等を学んで行ったと思います。

 

そして詩篇や、毎週必ず読まれる旧約聖書と新約聖書の成立と、キリストが詩篇を特に愛読していたことなどを知る様になりました。

霊南坂教会の聖歌隊に属していたお陰で、教会で行われる結婚式でも数多くソロで歌わせて頂きました。ここでも悪くないお小遣い稼ぎをさせて頂いたのも有難かったですが、特に花嫁方の親族と花嫁の一生に一度(の方が多い)のイベントでの熱い視線の先で歌う経験は自分を芯から鍛えてくれました。

 

そんなある日、私は副牧師の原先生にあろうことか六本木のバーに誘われたのです。ボトルは酒が全く飲めない筈の主任牧師の飯先生のボトルでした。

さぁここから先はまた次回です。


No.7  

 

今から40年前、当時の霊南坂教会 原誠副牧師は私に洗礼を受けることの意味・意義についてお話して下さいました・・・呑みながら(笑)! その言葉は今でも私の宗教曲指導の際の最も大切な指針となっています。簡単に言えば「救われる」こと、暗いイメージの行為ではない事、生きて行く上での「バックボーンに成り得るもの」であることをお話し下さいました・・・呑みながら(笑)! その当時の私は幼少期からぼんやりと希望していた大学にストレートで入学を許され、大学院にまでいとも易々と現役合格していい気になっておりました(ごく簡単にいい気に成るタイプの人間なのです!)。困ったことなんて体重の急増以外何一つ無かった私は、「自分が困ったとき・辛いとき・苦しいとき・悲しいとき・行き詰まったとき・過酷な運命を感じたときに洗礼を受けることは寧ろ神様に対して失礼だ!」と考える様になったのです・・・呑みながら(笑)! 

 

そしてそのままの流れで私は明るく楽しく元気よく、神様の導きを信じて日本基督教団霊南坂教会で飯清牧師から洗礼を受けるに至りました。このことはその後の私の強いバックボーンとして日々の生活はもとより、生業となった音楽活動を支え続けてくれているのですが、今年3月の哀しい哀しい家内の葬儀を参列・配信によりご覧頂いた方にはお判り頂けると思いますが、司式の後呂宮牧師が指摘された「いつの日にか私も洗礼を受けられる様な立派な人間に成長したい・・・」と幼少期から願っていた家内の思いを、身近にいた最もちゃらんぽらんな人間であった私がすんなり受洗してしまったことは、結果として家内の受洗への障害・躊躇を優しく取り去る結果ともなったのも事実です。前夜式での牧師先生の言葉は、決して話を盛った訳でもなんでもなく、何を隠そう家内がその胎内に娘を宿し、いよいよ洗礼を受ける際に受洗に至った経緯を記す書にハッキリと記されていたのです。

“信仰”は、どんなことが我が身に起きたとしても、それを「糧である」と信じることで思考が正されますし、「神様からの試練だ」と悟ることで、神様からの視線・愛を感じる事が出来るのです。星野富弘氏の詩の中に『愛されている』と言う作品があります。「どんな時にも神様に愛されている そう思っている 手を伸ばせば届くところ 呼べば聞こえるところ 眠れない夜は 枕の中に あなたが居る」と言う作品、ここに全てがあるのです。

 

それでも家内との死別だけは、なかなか「自分への試練」と考える事は出来ず、今日まで「しでかして来た」私の不埒な言動により神様が私の最も苦しむ「罰」をお与えに成ったんだ・・・と言う結論にしか辿り着けずにいました。私への罰の為に最愛の家内の命を奪う神の無慈悲、不条理を心の底から憎み、家内の発病前からずっと欠かさず墓参りを続けていた亡父を詰りました。しかし私は「こんなことになるのなら家内と結ばれなければ良かった・・・」と思った瞬間は、今のところ皆無です。家内は“佐竹由美”と言う人生をひたすらに邁進し、その務めを立派に果たしたんでしょう。そして私は、我々夫婦が信仰に支えられたからこそ、家内が亡くなるその瞬間まで由美を「由美らしく生きる」ことを私なりに、微力ながら支えて来られたことを誇りに思います。天災・天然・天使からのお呼びが掛るその時まで自暴自棄に成らずに生きて行きたいと願っています。     

随分と話が重たくなりましたが、次回から再び大学院以降の私の生活を面白可笑しくご紹介できればと思います。


No.8 

 

当時の副牧師 原誠牧師に六本木のバーに誘われたところまでお話させて頂いたと思いますが、 そこで私は受洗を進められたのです。 私は当時特に困ったことも無かったし、歌の為に知識・教養としてキリスト教を学ばせて頂いて おりましたし、信者目線の宗教の在り方を、教会の友人達を通して楽しく観察しておりました。また 冠婚葬祭の時にのみ何らかの宗教的儀式を重んじる日本人的感覚を様々に考える様になってい ました。 かなり夕方早い時間から終電くらいまで原先生は受洗をするという事、キリスト教徒となる事に ついて決して押し付けるのではなく、柔らかに説得して下さいました。 家内の葬儀の際に現主任牧師の後呂宮牧師が「家内が抱いていたクリスチャン像」に触れられて、 あろうことかそんな大切な葬儀の中で私が会衆の皆様から失笑を買ってしまったのですが、 私だって当時は自分の抑えようも無い不埒な言動や思いから、自分が信者に成るにはまだまだ高 いハードルと言うか大きな壁を感じていました。 ただ私はその時原先生にお話したのは、「自分は自身が悲しみや苦しみに在る時に洗礼を受ける 事だけはしたくない」と言う話をしたのを覚えているのです。そこから救って欲しくて洗礼を受ける と言うのは自分のキャラクターとしても心情からしても違うと感じていました。幸せな時にこそ感謝 して受洗をしたいとどこかで思っていたという事を、入ったことも無い六本木のバーの雰囲気と、 度数の高い強い酒の力を借りてか自分が熱く語っていたのです。

私は幼い頃から同居していた父方の祖母の朝夕に唱える仏様への「なむあみだんぼぉ~」を毎日 聞かされていた影響で「祈る」という事は人間として大切な事だと感じておりました。「今がいいん じゃない?」受洗する為に何も障害が無いじゃないか・・・?の言葉が決定打となり、そこから暫し お勉強モードに入り、信仰告白をし、飯清先生から洗礼を賜り信者と成りました。まだ藝大大学院 修士課程の1年生でした。 その頃から聖書の読み方も、宗教曲の歌い方も、宗教画の見方も全てバランス悪く解って無い くせに色々拘って力んで過ごす様になりました。でもこの頃のキリスト教信仰への熱い思い、力み、 アンバランスな時代があったからこそ、今の様々な解釈、これもまた妄想・空想・予想含みでは ありますが、出来る様になったのだと思っています。 こんな明るい受洗が当時はまだ一友人であった家内含め、 周囲に与えた衝撃は私の予想をはるかに超えておりました。 続きはまた・・


No.9 

 

さて、明るい受洗のところまでお話し出来たと思います。 受洗は私に音楽家を志す人間として、一つの新たなバックボーンを与えてくれました。 今までの人生も、現在の自分も、未来の展望も含めて「信仰を持つ」ことは、カンタータクラブの諸先輩 や優秀な後輩達の実力や存在感によって打ち砕かれていた脆く儚い自信でしたが、違う道からのアプ ローチによって、自分がそこまでに築いて来た道をも肯定できるようになり、自分の人生に明るい光が さして来ました。 そこからは、あの関口宏や山口百恵が挙式した旧霊南坂教会に嬉々として足を運ぶ様になりました。 まぁ、若者なりの幼い下心もチョッピリあったことは反省しつつ認めますが(笑)。大学院の学生として送る充実した学生生活と、木曜日夜の聖歌隊練習、金曜日夜にはカンタータクラブで有意義な時間を過 ごし、土曜日には結婚式での歌唱を一層活き活きと歌っていたことを覚えています。 霊南坂教会には、これまたヴェテランの長谷川朝雄先生以下優秀なオルガニストが多く在籍されてい たので、その方々のパイプオルガン伴奏で(実際には旧会堂のパイプオルガンは電気式でしたが・・・) 歌う事の喜びは、受洗以降更に嬉しく貴重な時間と成りました。 日曜日の午前中には礼拝の中で聖歌隊の一員として奉仕させて頂き、日曜日に大学関係や他の場所 での頼まれ仕事を熟す為に、聖歌隊での奉唱が済むと説教も聴かずに教会を飛び出した、なんてこと も少なくありませんでした。本当に人生で最も充実した日々を過ごしていたと言っても過言では有りませ ん。 しかし同時に私はこの頃猛烈に「結婚すること」に拘っていました。 実はさかのぼること二十年ほど前の幼稚園生時代に、私は「将来の夢」を絵と文章で書かされたことが 有りました。なんとそこに「結婚をしてお家を建てて子供を作って車を買って幸せに暮らしたい・・・」と書 いていたのです。 その時以来私は「結婚」を熱望する様に成って行ったのです。 まだ23歳になったばかりの若輩者の大学院生で定職も無く、歌だって不安定極まりない声を出してい たにも拘らずです。ただ馬鹿みたいに未来を明るく考えていたのです。妄想と迷走は留まることを知り ませんでした。 ここからしばらくが、私の人生の「最愛の人に辿り着くまでの旅」が始まるのですが・・・ 詳しくは申せませんが、続きは次号です(笑)!!!!

 


No.10 

 

結婚願望はある意味「巣立ち」をしたかったのかも知れない。産まれてから両親が共働き でしたので父方の祖母は物心付いた頃には同居していて、何故か一回り上の従姉2人も同 居しておりました。そして次々に産まれてくる(笑)弟達、ひっきり無しに出入りする父の合唱 団仲間、生徒、ピアニストや客人・・・。 私自身も藝大入学までの高校3年間は声楽・ピアノ・ヴァイオリン・作曲・ソルフェージュ・ア マチュア・オーケストラ等など、週に10箇所以上の個人レッスンに通わせて貰っていましたし、 要は大学院入学を果たした時点でそんなワサワサし通しの環境から脱出したいという思いが強かったのかも知れません。 勿論結婚なんて安定した収入の無い私がそう簡単に出来る筈も有りません。幾度かの失 敗を重ねていた頃(笑)でした。いつも何から何まで相談し合っていた学生時代の友人4人組 の一人であった佐竹由美の御父上が重いスキルス性のガンを患いました。それから一年の 闘病の後に、御父上は天に召されました。その間私はこの稀有なタレントを有するソプラノを 郷里の高松に帰してはならんと夢中に成り、やがてお付き合いをするようになり、そんな中で 御父上のご葬儀に参列すべく当時就航していたYS11に搭乗して一人高松に向いました。 そしてその葬儀の間中何故か私は由美の親戚の子供達数名のお守りをずっとさせられて大 騒ぎ!! そしてその日のお清めの席でなんと佐竹の御母様から「こちらは由美の東京藝 術大学の先輩でプロポーズをお受けしている辻秀幸さんですっ😱」と紹介をされてしまった のでした。勿論私も由美もびっくり仰天・呆然自失でした。だって、本当のプロポーズはそれ から3ヶ月も後だったんですから・・・ 義父の命日が12月6日でしたので、1年後の喪が明けて2日目の12月8日 トラ・トラ・トラ の開戦記念日に我々の“過食の・・・”じゃなかった“華燭の宴”はしかしこれまた決して厳粛 ではなくワサワサと挙行されたのでした。 そして結婚式翌日の9日には、町田の教会で揃ってメサイアのソリストを務めたのでした。 そしてそんな回遊魚人生は今尚続いているのです。

 

 


No.11

 

こと女性への憧れは常に 一番見目麗しく言動が心に響く綺麗な方、若しくは所作から語り口まで全てが可愛らしい方でした。そして運よく私はその都度短期間の交際を許され、後に正体が暴かれ、そして判で押した様に振られたのでありました。直ぐに結婚ぽい話を持ち出す変な若者だったこともあったのかも知れません。

でも振られるって結構大切なことでして、その殆どの方々と今日までに様々な場所で再会し、時に共演し、様々なツールを通して友人付き合いまでが成立しております。今にして思えばこれって「付き合ってるっ!」って思ってたのは私だけで、実は向こうは元々そんなつもりじゃ無かったのかも知れないのです。ですからここには書けませんが結構惨たらしい振られ方を続けました。続けたという事は、つまりその、当時の私には三日と空けずに次の恋へと突き進むバイタリティーがあったという事なのかも知れません。バイタリティーと云えば聞こえはいいのですが、要は女の人が大好きだったんでしょうね(内緒ですが現在進行形です)。俳優の石田純一氏がかつて「人を嫌いになるより好きになった方が良いに決まってるでしょ!」って嘯いてましたが、内緒で力強い拍手を送ってました。

しかしそういう気持ちは、やや言い訳がましいですが音楽に対しても同じ様に向けられていたし、今もそうだと自負しています。例えば若い頃から大曲を歌い終わったり、指揮者としてとてつもない大仕事をやり遂げた後には、直ぐに「じゃりん子チエ」や「がきデカ」等の放送禁止になった様なコミックを読み漁って容量の少なすぎる頭の中で鳴り続ける曲どもを追い払い、空っぽにして次へと進むのです。そうしないと変なところで変な形でリンクして可笑しなことを言い出してしまうんですよねぇ。

ですから私の頭の中ではもう前回のモーツァルトも、メンデルスゾーンも鳴ってはいません。BWV147とMagnificat & シューベルトあるのみです。今後もきっと皆さんを不愉快にさせてしまうような言動が無くなることはないと思いますが、これは父からのキツイ遺言「人の嫌がることを進んでやれっ!」に従っているだけですのでどうかお許しくださいませ。皆さんとの演奏は勿論、ごく稀にお付き合い出来るアフターも大好きです!! 今後とも何卒宜しくお願い申し上げます。またね!

 



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