オペラ作曲家として有名なヴェルディ(1813年10月10日(若しくは9日)生~1901年1月27日没)は、イタリア ブッセート近郊の小村レ・ロンコーレに生まれますが、ここは当時パルマ公国を併合したフランス第一帝政下に置かれていた為、出生届けを出された時点では“Joseph Fortuning François”と言うフランス人として登録されたと言います。
ヴェルディの父カルロは農業従事者でしたが、この世代の方としては珍しく、読み書きも出来たそうで、郵便の取扱業や宿屋経営等もやっていたと言います。そうそう、ドニゼッティ作曲“愛の妙薬”のネモリーノの第1幕でのアリアにも「彼女は読み書きも勉強も出来るんだ」なんて歌詞もありますので、まだまだそう言う時代だったんでしょねぇ。
ヴェルディ自身も教会のオルガニスト・作曲家・下院議員(短期間です)・上院議員(一度も議会に出席せず)・農夫へとトラバーユ(死語?)して行きました。中でも、農業従事者としての生活は彼自身かなり気に入っていた様で、自らブッセート郊外に農園を買い、かなり安定した収入を得られる様に成っていたようです。「俺は昔から農夫」は彼が幾度となく音楽活動から逃避する際の決まり文句だったようです。因みにこのヴェルディの活躍時期は、日本の江戸時代末期から明治30年頃という感じでしょうか?
(肖像画は
ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ

 

同じイタリア人の先輩大作曲家で1868年(明治維新の年)に逝去したG.ロッシーニの為に、同時代に活躍中のメルカダンテを始め12人の作曲家と共に楽譜出版社「リコルディ社」に呼びかけ、13の部分に分けた各章を皆で分担してレクイエムを合同制作しようと試みました。言い出しっぺのヴェルディ自身は直ぐに担当箇所のLibera meを作曲しましたが、他の作曲家達は「全てが無償である事」を渋り始めます。担当曲をただ捧げるだけであればともかく、出版社から楽譜が出版されるという条件が有る上での“無償”は、作曲家としてそう簡単に呑み込んでいい話では無かったであろうことは理解できます。更にはボローニャの劇場支配人の反対が決定打となり、この話は立ち消えとなってしまいました。
ロッシーニ逝去から5年後の1873年に、小説「いいなづけ」で今日でも有名なイタリアの文豪でヴェルディ自身が非常に愛し尊敬していたマンゾーニが逝去し、ヴェルディは今度は一人でレクイエムを作曲し、一年後の命日に演奏する事を企画し、再び「リコルディ社」にオーケストラなど演奏に関わる費用を出す様に要請し、自らは印刷費を負担する事で交渉成立し、マンゾーニの一周忌の1874年5月22日(金)、ミラノのサン・マルコ寺院にてヴェルディ自身の指揮により初演されました! その際には当時のミラノ市長がこの追悼セレモニーの司会を務めたんだそうです。初演では当時の一流のソリスト陣、スカラ座のオーケストラ&120名の合唱団の精鋭達が集い、その演奏はマンゾーニ氏の御霊に捧げられました。
余談ですがヴェルディは凄まじい練習の鬼だった様で、7時間~8時間のリハーサルも珍しくなかったと言いますから・・・合唱団の声は保ったんでしょうかねぇ?
その三日後の日曜日には直ぐ傍のスカラ座で演奏会形式で再演されています。ヴェルディ自ら初演直後の再演場所にオペラ劇場を選んだことからも、このレクイエムを「教会音楽」というよりは「劇場音楽として演奏されるべき」と考えていたと言えるでしょう。これまた余談ですがヴェルディはキリスト教そのものに対して否定的な人生を歩んだ作曲家の一人として知られています。実はあの“ドイツ・レクイエムを作曲した”ブラームスもそうだったと言うんですから解りませんね。ブラームスも殆ど神という言葉を使わずに、ラテン語で無く母国語でレクイエムを書き上げたのもその辺が影響しているんでしょうか? そう言った観点からこれらの作品を聴き直すのもちょっと面白いかも知れませんね。

(肖像画はジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニ

 

このレクイエムの原題はMessa da Requiem per l'anniversario della morte di Manzoni
「マンゾーニの命日を記念するためのレクイエム」と銘打っておりますから、マンゾーニを追悼する為に書かれた事は間違いの無い所ですが、ヴェルディはロッシーニの命日の為に書き上げ封印していたLibera meに筆を加え、レクイエム全体の終曲に転用していることから、ロッシーニへの追悼への思いも同時に込めていると容易に想像できます。またレクイエム作曲前の「ドン・カルロ」初演の際に公演時間の都合で割愛されてしまった楽曲のフレーズがそのままLacrimosaに転用されたと言う話も事実のようです。
このレクイエムは、発表当初から今日に至るまで、「宗教曲」と言う観点からは「過度にオペラ的(劇的)表現が多い」と言われ続けていますし、死者を追悼する楽曲のオペラ劇場での公演には賛否が巻き起こり、後のこの曲への様々な厳しい批評に、更に油を注ぐ結果となったことは有ると思います。当時の新聞評には「絶叫するだけの合唱」「怒号・嬌声の連続」「正常な神経の持主がこの詩句と同時に受け入れることのできるメロディーはどこにも聴かれなかった」等の酷評が並んだそうですし、私もそれら全ての批評を否定するつもりは有りませんが、オペラ作曲家であった彼がその培って来た劇的表現を、人類が生まれた後に最も重要視する「死」を表現する楽曲の作曲に当たり、そのテクニックを効果的に活用した事は作曲家として当たり前の取り組みで有ったと言えるのではないでしょうか。そして様々な酷評こそは、即ちその時代にとって如何にセンセーショナルな作品であったかの表れであり、この後大掛かりな宗教作品が、次々と教会を飛び出して、劇場で「演奏者と聴衆が対峙するスタイル」で演奏され聴かれる機会が増え、それが当たり前になった現代に在っては、その存在感を他の追随を許さぬ更なる高みへと押し上げているのです。
それでも「パレストリーナからのイタリア音楽の流れを受け継ぎ・・・」とヴェルディは言っているのです(笑)が、その絢爛豪華、且つドラマティックな展開は、バロック時代以降のイタリア絵画、イタリア音楽史の流れに沿った作風と言えるでしょうし、当時の人々には勿論のこと、その時代以降、過度な映像文化に晒され続ける今日の我々にさえも、その「音塊」とも言うべき強烈なサウンドは、深い感動と説得力を以て、スペクタクル性の高い「血湧き肉躍る宗教作品」として聴く者・歌う者に迫って来るのです!

(肖像画はアレッサンドロ・フランチェスコ・トンマーゾ・アントニオ・マンゾーニ
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1875年にロンドンのロイヤルアルバートホールで演奏された公演では、合唱団の人数は何と1,200名を数えたと言われます。このレクイエムの絶大な人気(宗教作品としてはおかしな話です)は、発表直後のヨーロッパ・アメリカでの異常なまでの再演・公演回数を見ても容易に想像ができます。それを「信仰深き方々の心にもヴェルディの抱えるキリスト教への思い、不条理さが伝わった」と考えるのはいささか意地悪な見方かも知れません。
そしてこのレクイエムはモーツァルト・フォーレのレクイエムと共に世界3大レクイエムと呼ばれ「最も荘厳にして劇的且つ華麗なレクイエム」として、時代を超えてその認知度、人気は高まるばかりです。初演時には批判的だったハンス・フォン・ビューローも後日「どんなに下手な楽団員の手によって演奏されても、涙が出るほど感動させられた」と、この曲への評価を改めた(笑??)とか。彼のこの言葉はMPCの団員一人一人にどれほどの勇気を与えるかは想像も付きません!!


作曲家・事業家としての金字塔を彼の思いのままに歩んだヴェルディですが、その人生はと言うと必ずしも順風満帆とは言えなかった様です。22歳の時、ヴェルディの父の仕事上の友人で、ヴェルディの才能をいち早く認めた音楽好きの商人アントーニ・パレッツィの娘マルガリーテと結婚し二人の子供を授かりますが、二人とも病により夭逝し、この最初の妻も若くして病死します。二人目の妻でソプラノ歌手のジュゼッピーナとの間には3人の「婚外児」を設けることになります。その理由はヴェルディの教会嫌いが影響したとも言われていますが、前妻を知る彼の故郷の人々からは、かなりの冷遇を受けたと言います。それでもヴェルディ45歳 ジュゼッピーナ43歳の時に当事者二人と立ち会わざるを得ない馭者と公証人だけみたいな滅茶苦茶地味な形で正式に結婚したそうです。

ヴェルディ死去の3年前にはそのジュゼッピーナも肺炎で先立ってしまいます。

1901年1月27日早朝にヴェルディは87歳の生涯を閉じます。今日彼は、自身が創立した「カーザ・ディ・ヴェルディ」の礼拝堂に二人の妻と共に眠って居られるそうですが・・・
安眠出来てるんでしょうか?? 更にジュゼッピーナの生前からちょっと色々と噂になった女性で、晩年彼に付き添ったと言うシュトルツ(ソプラノ歌手)もその礼拝堂の門の傍に、本人の希望かどうかは判断出来ませんが、これまたひっそりと?眠っているそうですが・・・針のむしろ状態? 亡くなってからも尚、胃が痛くなる様な話です。
この時代では世界中で子供が亡くなったり流行病で身内が亡くなると言う事は、今日のコロナ禍以前の先進国では想像も出来ないほど高い確率で有ったのでしょうが、ヴェルディが、神の大いなる存在を意識しつつも「現世に於ける不条理・御旨の曖昧さ・自らに立て続けに降りかかる悲劇」に対して大いなる不信と不満と怒りを持っていたと考えれば、この曲の得も言われぬ激しさや、pppppp~ffffffの尋常で無いダイナミックレンジの幅も頷けようというものです。勿論、彼は群盗、アイーダ、椿姫、オテッロ等のオペラを書いた作曲家でも有るので、そう言う作風は元々有していたでしょうが、幾度となく繰り返されるDies Iraeのフレーズに、私は作曲家の怒りと恐怖を常に感じるのです。
さて私がこの作品に限らずレクイエムの演奏で最も拘るポイントは、練習でも少しだけお話しましたが、歌われるテキストの祈りの一節の目的格が「一人称単数であるか三人称であるか」です! 即ち“最も卑しく、しかし人として最も正直な祈り”である“Libera me”“Salva me”“Quaerens me”等の様に自己救済を祈る部分と“Dona eis”“libera eas”“ne absorbeat eas tartarus”の様に第三者(死者)の為に祈り願う尊い部分の表現に於けるコントラストです。無論「そんな事は作曲家が十分に考慮して作っている」と言われてしまえばそこまでですが、その拘りは演奏に更なる立体的表現を与え、特にこのレクイエムではその効果が作曲家の意図する劇性と相俟って深い感動へと繋がって行くのです。
繰り返される“Dies irae(怒りの日)”の激しさは、彼自身も目にしたに違いないシスティナ礼拝堂壁面のミケランジェロの傑作「最後の審判」をも彷彿とさせます。また続唱(Dies Irae~Lacrimosa)を持つ全てのレクイエムのテキストでそうなのですが、最も深い悲しみと諦観の表現が要求される“Lacrimosa(涙の日)”に付された非常に感動的で流麗の極みとも言うべき音楽は、ヴェルディ自身、深い感動の内に書き上げたと言う逸話が残っています。
ヴェルディの音楽の最大にして最良の理解者であった2番目の妻、ジュゼッピーナは、夫のレクイエムに対する多くの賛否の声に辟易して次の様な書簡を友人に送ったそうです。
「人々は宗教的精神が他の作曲家のレクイエムに比べて多いの少ないの、などと論じています。私に言わせれば、ヴェルディのような人はヴェルディのように書くべきなのです。つまり、彼がどう詩句を感じ、解釈したのかに従って書くということです。仮に“宗教にはその始まり、発展、そして変化というものが時代と場所に応じてあるのだ”ということを認めるならば、宗教的精神とその表現方法も、時代と作者の個性に応じて変化しなければならないでしょう。」と・・・。 この方本当に良い奥様だったんですね。

(肖像画はジュゼッピーナ・ストレッポーニ)

 

レクイエムはミサである限り本来ならば限られた誰かの為であってはならないでしょうし、限られた国や民族の為に捧げられる事があっても成らないのでしょう! “死者のためのミサ”が教会音楽の中の立ち位置を微妙なものにしている原因もそこにあるのですが、それでも日本人に限らず、人は「レクイエム」を歌い・奏することに魅かれて行くのです。使命感を感じていると言っても良いのかも知れません。何時の日かこの曲でのMPC公演では、「故 荒谷俊治先生への追悼」として奉唱するのは勿論ですが、この忌まわしきコロナウィルスに罹患されて無念の死を遂げられた沢山の世界中の方々、そしてそのご遺族、御関係者の皆様の心に寄り添う演奏となればと願います。更に演奏する者はそれぞれの大切な故人に、大いなる慰めと祈りを込めて共に歌い捧げましょう。そして聴衆の皆様にとっても、この熱いレクイエムのサウンドに包まれながら、それぞれに取って大切な方に思いを馳せて頂く時間となればと切に願っております。

・・・Requiem aeternam Dona eis Domine


どうぞ皆さま健やかにお過ごしくださいませ

 

 



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