『異国情緒と官能に染められた饒舌の美学 --邪宗門秘曲-- 』

町田フィルハーモニー合唱団 島田隆史

 

作曲者 木下牧子は 新しい作品を作るにあたって、求めているイメージと北原白秋の「邪宗門秘曲」の詩が一致したとしている。『単一楽章による新しいタイプの作品を書こうと決心した。テキストも使い慣れた口語詩は除外し、呪文、ヴォカリーズ、外国詩などを中心に検討した。最終的に私の求めるイメージと一致したのは、耽美派象徴詩として有名な、北原白秋の「邪宗門秘曲」であった。異国情緒と官能に染められた饒舌の美学は、私に新鮮な刺激を与えてくれた』(以上楽譜(カワイ出版)の序から)

 

北原白秋の描く美学とはどんなものだったのか、その秘密を探ってみようと思う。

1.北原白秋 処女詩集「邪宗門」

後年の日本的で香り高い叙情的な詩歌に比べ『邪宗門』の持つ特異な文体と刺激臭は、25歳の若き白秋の一面を表わした詩集である。明治42年に発表した「邪宗門秘曲」は121編の処女詩集の巻頭を飾る主題的作品であり彼の代表作でもある。

きっかけは明治40年、北原白秋は与謝野寛らと仲間5人で(後述:「五足の靴」で解説)、長崎・平戸など九州各地を旅行したその時に見た殉教の歴史と南蛮文化の強烈な印象が、2年後の明治42年、処女詩集『邪宗門』の自費出版という形で開花するのである邪宗門とは、もちろん邪教視されてきたキリスト教の呼称であるが、それは九州を故郷とする白秋の、当時の詩情をかき立てるきわめて自然なイメージであったと思われる。しかし白秋は、それを新時代の詩人の比喩的呼称としたのだろう。このことは、その序に「我ら近代邪宗門の徒」と記していることでも明らかである。新しい詩人の畏怖と好奇を邪宗門徒のそれに擬しているのである。この詩は、一貫して異国文明に対する好奇と驚異を表し、こうした妖しい夢のためには、命を縮め、 磔を血に染めても惜しまずという、耽美者の強い願望を歌っている。ここには、異教への好奇心と幻想を表現するために、故意にラテン語、ポルトガル語、オランダ語、スペイン語、梵語(サンスクリット語)も駆使して江戸時代の外国語訛りを多く使い、言葉を音のように表現している。詩集『邪宗門』は、欧州印象派絵画の持つきらびやかな色彩感覚を、韻律に富んだ修辞で、官能的・耽美的な神秘の世界として展開している。

 

北原白秋生家(福岡県柳川市)

原白秋:本名は北原 隆吉(きたはら りゅうきち)。詩、童謡、短歌以外にも、新民謡「松島音頭」、「ちゃっきり節」等の分野にも傑作を残している。生涯に数多くの詩歌を残した近代の日本を代表する最高の詩人の一人である。

1885年(明治18年)1月25日、熊本の南関に生まれ、福岡の柳川で育つ。

現・福岡県立伝習館高等学校に進むも、1899年(明治32年)には成績下落のため落第。この頃より詩歌に熱中し、雑誌『文庫』『明星』などを濫読する。ことに明星派に傾倒したとされている。文学に熱中し、同人雑誌に詩文を掲載。1901年、初めて「白秋」の号を用いる。早稲田大学英文科予科に入学するも中退。1905年(明治38年)には「早稲田学報」の懸賞一等に入選し、いち早く新進詩人として注目されるようになる。

詩、短歌、童謡、民謡その他、詩歌の広い領域にその活動範囲を広げ、常に新境地を求めて、同世代や後世代の文人に多大な影響を及ぼし続けた。 昭和17年、白秋は第二次世界大戦の激化する中、57歳でその生涯を閉じ、多摩霊園に眠っている。

 

2.北原白秋著 「邪宗門秘曲」をもっと知っていただくために → 下記に復刻文の写真を参照

 易風社版 1909(明治42)年3月15日発行の「邪宗門」復刻本(高知県市民図書館・近森文庫所蔵)    ・・・華麗な装丁で挿絵も豊富・・・

詩集「邪宗門」の扉を開けてみましょう

ここ過ぎて神経のにがき魔睡(ますい)に。 (神秘的な眠りが精神を激しく揺り動かす)

注釈:魔睡-魔力にかかったような深い眠り(大辞林第三版)。森鴎外の小説「魔睡」、また夏目漱石の「吾輩は猫である」にも「魔睡」という言葉が出ている。明治20年代頃から「催眠術」の訳語として使われていた。

 

序文

詩の生命は暗示にして単なる事象の説明には非ず。かの筆にも言語にも言ひ尽し難き情趣の限なき振動のうちに幽か(かすかな)【やっと感じ取れる】なる心霊の欷歔(ききょ)【すすり泣き】をたづね、縹渺(ひょうびょう)【ほんのりと浮かぶ様】たる音楽の愉楽に憧がれて自己観想の悲哀に誇る、これわが象徴の本旨に非ずや。されば我らは神秘を尚び(とうとび)【重んじる】、夢幻を歓び、そが腐爛(ふらん)【腐って形がくずれる】したる頽唐(たいとう)【道徳的で健全な精神が失われていること】の紅(くれない)を慕ふ。哀れ、我ら近代邪宗門の徒が夢寝にも忘れ難きは青白き月光のもとに欷歔く(すすり泣く)大理石の嗟嘆(さたん)【嘆き】也。暗紅にうち濁りたる埃及(エジプト)の濃霧に苦しめるスフィンクスの瞳也。あるはまた落日のなかに笑へるロマンチツシユの音楽と幼児磔殺(たくさつ)の前後に起る心状の悲しき叫也。かの黄臘(おうろう)の腐れたる絶間なき痙攣と、ヸオロンの三の絃を擦る嗅覚と、曇硝子にうち噎ぶ(むせぶ)ウヰスキイの鋭き神経と、人間の脳髄の色したる毒艸(どくそう)の匂深きためいきと、官能の魔睡の中に疲れ歌ふ鶯(うぐいす)の哀愁もさることながら、仄かなる角笛の音に逃れ入る緋の天鵞絨(ビロード)の手触の棄て難さよ。

 

幼児磔殺(ようじたくさつ):「邪宗門」の扉銘とそれに続く上記序文のページに書かれている口絵。五足の一行が見せてもらった「さんたくるす」を白秋はスケッチしたそうである。天草での信徒殉教等に触れ、無垢なものが圧殺を受ける不条理とキリストの磔とが綯い混じったイメージを表したものか、と思われる。序文に白秋が意図するこの詩集の編集方針(例言)とこの詩集の読み方を次のように記している。 →下記の写真を参照

 

=現代語要約=

私の象徴詩は情緒の諧楽と感覚の印象とが主な中身である。自己の感覚と刺戟と神経の悦楽とにしているので、思想の概念を求めて、強いて詩を作ることを嫌悪している。私の詩を読もうとする人は、この理屈や意味を聞くこと、また幻想のない思想の骨格を求めることは誤りである。振動のリズムを感じ、そのあるがままの調律で奏でた音楽的象徴として、新しい自由詩の形式を用いている。ある人はこのような詩を嗤って甚だしい誇張と言い、架空な空想を歌うものと言うが、私の幻覚を自ら真に感じた官能が根抵にあるのである。人はそれぞれ相違があり、強いて自己の感覚を尺度として、他に押し付けるのは誤りである。本来、詩は論ずるものではない。現在の私は文芸上の如何なる結社とも組まず、私の独自の個性の印象で奔放で自由なることを欲するものである。 明治四十二年一月

 

「邪宗門秘曲」を詠むに当たって白秋は理屈や理論で解釈するのは間違いで、各々個人が感性で、触発され、色合いを楽しみ、味あうもよし、共感するのも嫌悪するのもよしとしています。つまりこの解説を書いていること自体がナンセンスなのでしょう。ですから皆さんお好きなように十人十色の解釈をお楽しみください。

 

邪 宗 門 秘 曲

 

われは思(おも)ふ、末世(まつせ)の邪宗(じやしゆう)、切支丹(きりしたん)でうすの魔法(まはふ)。黒船(くろふね)の加比丹(かひたん)を、紅毛(こうまう)の不可思議国(ふかしぎこく)を、色(いろ)赤(あか)きびいどろを、匂(にほひ)鋭(と)きあんじやべいいる、

南蛮(なんばん)の桟留縞(さんとめじま)を、はた、阿刺吉(あらき)、珍(ちんた)の酒(さけ)を。目見(まみ)青きドミニカびとは陀羅尼(だらに)誦(ず)し夢にも(ゆめ)語る(かた)、

禁制(きんせい)の宗門神(しゆうもんしん)を、あるはまた、血(ち)に染む(そ)聖磔(くるす)、芥子粒(けしつぶ)を林檎(りんご)のごとく見(み)すといふ欺罔(けれん)の器(うつは)、波羅葦僧(はらいそ)の空(そら)をも覗(のぞ)く伸(の)び縮(ちゞ)む奇(き)なる眼鏡(めがね)を。

屋(いへ)はまた石(いし)もて造り、大理石(なめいし)の白き(しろ)血潮(ちしほ)は、ぎやまんの壺(つぼ)に盛られて(も)夜(よ)となれば火(ひ)点(とも)るといふ。

かの美(は)しき越歴機(えれき)の夢(ゆめ)は天鵝絨(びろうど)の薫(くゆり)にまじり、珍(めづ)らなる月(つき)の世界(せかい)の鳥獣(とりけもの)映像(うつ)すと聞(き)けり。

あるは聞く(き)、化粧(けはひ)の料(しろ)は毒草(どくさう)の花(はな)よりしぼり、腐(くさ)れたる石(いし)の油(あぶら)に画(ゑが)くてふ麻利耶(まりや)の像(ざう)よ、

はた羅甸(らてん)、波爾杜瓦爾(ほるとがる)らの横(よこ)つづり青なる仮名(かな)は美(うつ)くしき、さいへ悲しき歓楽(くわんらく)の音(ね)にかも満(み)つる。

いざさらばわれらに賜(たま)へ、幻惑(げんわく)の伴天連(ばてれん)尊者(そんじや)、百年(もゝとせ)を刹那(せつな)に縮(ちゞ)め、血(ち)の磔(はりき)脊(せ)にし死す(し)とも惜(を)しからじ、願(ねが)ふは極秘(ごくひ)、かの奇(く)しき紅(くれなゐ)の夢(ゆめ)、善主麿(ぜんすまろ)、今日(けふ)を祈(いのり)に身(み)も霊(たま)も薫(くゆ)りこがるる。 

明治四十一年八月

 

 3.なぜキリスト教が邪宗と呼ばれたか、その背景にちょっと雑学の寄り道

「邪宗門」(じゃしゅうもん)とは、「邪な宗門」つまり「邪悪な宗教」といった意味の言葉・表現で、豊臣政権及び徳川幕府が用いた一種の政治用語である。時の権力者が彼らから見て敵対していると感じたり、都合が悪いと考えられた宗教にまとめてレッテルを貼るための政治的な用語であり、キリスト教や日蓮宗不受不施派が邪宗とされ「邪宗門」に分類された。戦国時代、日本には多数のキリシタン大名がおり、キリスト教徒もそれなりの数がいた。織田信長亡き後豊臣秀吉は、天正15年(1587年)に有名な伴天連追放令を出し、長崎西坂での二十六聖人磔処刑も秀吉の命で行われた。こうして日本の正統な国家秩序を破らんとする「邪法」を奉じる宗門であるとするようになった。後年江戸幕府もこうした方針を継承して、一般民衆に対して「キリスト教=邪宗門」とする観念を植え付け、多数のキリスト教徒を迫害し、結果、大きな事件としては幕府征討軍12万4000人で総攻撃し、14歳の天草四朗時貞と篭城した3万7000人がほぼ全滅した「島原の乱」なども起きることになった。この乱の後、危惧した江戸幕府は1639年ポルトガルと通商を絶ち鎖国に入るのである。

明治6年(1873年)、明治政府は全国のキリスト教禁制の高札を撤去し、300年にわたるキリスト教禁制が解かれた。しかし、「キリスト教=邪宗門」との観念を植え付けられてきた一般民衆の間には、解禁に対して不安や恐怖を覚える者もあったとされている。そのような不安と蔑視はキリスト教解禁後も続き、政府及び民衆からの様々な圧迫が日本のキリスト教徒に対して加えられる遠因にもなった。

 

4.「邪宗門秘曲」の創作に繋がる九州西部の旅とは

前にも述べたが、北原白秋らは1907(明治40)年7月28日夜東京を出発し、8月5日から8月12日にかけ、佐世保、平戸、長崎、大江村(天草市)、島原、と旅し、5人は紀行文「五足の靴」を表している。「邪宗門」創作のインスピレーションを持つきかっけとなったところの白秋の見た九州南蛮文化・遺跡はどんなものだったのだろうか。

クライマックスは8月10日に大江天主堂ガルニエ神父(紀行文では親しみを込めた「バアテルさん」という呼び名で記載されている)を訪れた時の様々な見聞である。その様子は紀行文に窺い知れる。さらに興味を引かれた方は文末の参照Websiteをご覧頂ければ幸いである。

 

五足の靴:『五足の靴』は1907年(明治40)7月28日から8月27日まで、九州西部中心に約1ヶ月旅した、5人(与謝野寛、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里)による紀行文。その年の東京二六新聞に旅程より10日ほど遅れて8月7日より9月10日まで、5人が交互に執筆して、29回にわたり連載された。一行は、平戸、長崎、島原、天草などでキリシタン史遺跡に立ち寄り、戦国時代から苦難を乗り越えてきたキリシタン信仰に思いを馳せている。なお連載時は執筆者は匿名で、表題には「五人づれ」、文中では与謝野寛(鉄幹)は「K生」、木下杢太郎は「M生」、北原白秋は「H生」、平野万里は「B生」、吉井勇は「I生」の仮名を用いた。→ 下記の写真を参照

 

 以上北原白秋作「邪宗門秘曲」について簡単に述べてきたが、8月31日の演奏会では木下牧子の作った、大きく抑揚あるフレーズを体で感じ、「我ら近代邪宗の徒」と言った北原白秋の自由詩への情念を思いながら、「邪宗門秘曲」の世界を合唱で表現したいと思う。

 

 出典: 参考文献及びWeb Site

○ 木下牧子公式サイトhttp://www.m-kinoshita.com

○ 木下牧子「邪宗門秘曲」楽譜の序文 カワイ出版から一部分転載

○ 「邪宗門」の歴史、「北原白秋」「大浦天主堂」

フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%8E%9F%E7%99%BD%E7%A7%8B

○ 北原白秋と生家の写真:北原白秋記念館 http://www.hakushu.or.jp"

○ 「邪宗門」表紙、挿絵(邪宗門扉銘)高知市民図書館近森文庫所蔵 国文学研究資料館 近代書誌・近代画像データベース http://school.nijl.ac.jp/kindai/CKMR/CKMR-00022.html

○ 「邪宗門秘曲」の原文 青空文庫作成ファイル:インターネットの図書館、青空文庫 底本:「白秋全集 1」岩波書店  1984(昭和59)年12月5日発行

http://www.aozora.gr.jp/cards/000106/files/4850_13918.html

○ 二十六聖人像写真 http://isidatami.sakura.ne.jp/26seizin.html

○ 「五足の靴」の旅 http://www013.upp.so-net.ne.jp/gauss/gosoku1.htm

○ 熊本文学散歩 五足の靴 http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/bungaku/gosoku.htm

○ 五足の靴 岩波文庫 2007年5月発行

○ 岩波書店「広辞苑」第5版

○ 日立電子百科事典「マイペディア」

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